ペリリュー島に行ってきました

ペリリュー島で戦没者追悼の法要をしてきました。

ペリリュー島はパラオ共和国の南にある小さな島です。大きさ13平方キロメートル、東京ドーム278個分です。1944年、この小さな島で当時1万 人いた日本軍守備隊がほぼ全滅、生存者わずか34名という、想像を絶する激戦がありました。対する米軍も、攻略のために海兵隊の最強部隊を送り込んできま した。つまり、それだけ重要な戦いと位置付けられていたのです。両者の戦闘は日本がゲリラ戦法を取ったこともあり、当初の目算よりもはるかに長引き、70日を超えて肉弾戦が繰り広げられました。米海軍も1万人以上の死傷者を出し、海兵隊史上最悪の大損害を被っています。

ペリリュー島でこのような悲惨な戦いが展開された背景に、大本営の方針がありました。この戦闘に先立つガダルカナル島とアッツ島での玉砕をふまえ て、大本営はできるだけ戦闘を長引かせてアメリカ軍にダメージを与えるよう命令したのです。この後、硫黄島と沖縄でも同様の作戦方針が引き継がれ、日本軍 将兵の消耗は目を覆うばかりになって行きました。

ペリリュー島での攻防が重要だったのは、次のような情勢の推移によります。1942年5月2日、本間雅治中将率いる陸軍第14軍が米植民地であった フィリピンを占領しました。米司令官マッカーサーは8万以上の将兵と看護師を残し、コレヒドールからオーストラリアへ逃げ延びましたが、やがて日米の攻守 が逆転するとアメリカ軍はフィリピン奪還作戦を計画します。その際ニミッツ提督はフィリピンの東方900キロ海上にあるパラオに着目し、ここを拠点に作戦 を展開しようと考えたのです。特にペリリュー島は重要でした。1600mの滑走路を持つ飛行場があったからです。

ところが、マッカーサー司令官はペリリュー島陥落を待たずにフィリピン奪還を果たします。自分が失ったものを自分の力で取り戻したかったのでしょ う。その結果ペリリュー島の戦略的意味は失われたはずでしたが、一度動き出した作戦が見直されることはありませんでした。 当初、日本の玉砕覚悟の総突撃を知っていたアメリカ軍は、この地でも同じ戦法がとられると思っていました。それはアメリカにとっては赤子の手をひねる様な もので、作戦指揮官だった第一海兵師団長リュパータス少将は「二三日で落ちる」と訓示していました。作戦変更の必要などなく、蹴散らせばそれでよいと考え ていたのです。

しかし上記のような事情で長期のゲリラ戦になりました。一週間たっても、味方の損害が増えるばかりで飛行場の占領すらできません。やがて、密林の奥 から襲ってくる日本兵への不安と精神的な圧迫が兵士たちを苦しめるようになります。また、初めて経験する肉弾戦に精神の異常をきたす兵士も多数いました。

一方の日本軍は守備隊長・中川州男(なかがわくにお)大佐の指揮のもと戦闘の一年前から洞窟陣地を作り、全島を要塞化していました。水際作戦では上 陸してくる海兵隊を薙ぎ払うように掃射しかなりの損害を与えましたが、いったん上陸を許した後は完全に劣勢でした。飛行場では戦車隊が壊滅的な打撃を受け ました。また物資の不足も深刻でした。兵士の補充はもちろん、弾薬・装備も、医療品も、食事も、水も欠乏していました。水に至っては、洞窟にある鍾乳洞の 先から滴り落ちる水滴を缶に集めて、それを皆で奪い合うようにして飲んでいたといいます。このような状況に耐えられず脱走を企てる者には容赦のない粛清が 加えられ、そのために命を落とした兵士もいました。当時の生き残りである土田喜代一さんは、「サソリとサソリを瓶の中に入れてふたをしてお互いに殺し合い をさせるような状況だった」と証言しています(NHK特集「狂気の戦場 ペリリュー―~忘れられた島の記憶~」)。

アメリカ軍は圧倒的な物量作戦を展開し、4万の兵士に加え、爆撃機で要塞を攻撃し、また歴史上はじめてナパーム弾と火炎放射器が実践に投入されまし た。戦闘が終わったあとのペリリュー島は一面の焼け野原となり、もともとパラオ人の住んでいた住宅もみな破壊されつくされてしまいました。1944年11 月24日、中川守備隊長は自決、その後全軍玉砕攻撃を敢行、日本軍は敗れてペリリュー島での戦いは終わりました。土田さんはじめ生き残った人たちは島内各 地にいたため敗戦を知らず、1947年まで洞窟陣地で生き永らえ、「上官命令」によってはじめて「米軍に投降した」ということです。

平成26年8月に放映されたNHK特集では、生き残った元日本軍・米軍兵士たちの証言がいくつも取り上げられました。どなたも、戦争が終わっても自 分が体験した地獄を思い出さない日はない、と語っていらっしゃいました。70年の風雪を経た表情からとつとつと語られる言葉の一つ一つに、たとえ戦闘は終 わってもこのような悲惨な経験を経た皆さんの戦いはいまだ終わっていないという実感を得ました。中川州男守備隊長はパラオへの赴任前、奥様に次の赴任地を 問われ、「永劫演習さ」と答えたそうです。永久にやまない戦場、という意味合いでしょうか。戦闘に参加したすべての将兵にとって永劫演習なのかもしれませ ん。

おこがましいことかもしれませんが、自分はさらにこう考えます。今の時代に生きる自分自身にとっても、永劫演習なのだ、と。それは、この戦いも含め た戦争を身近に感じて、自分のこととして語り伝えてゆかねばならないことであるからです。日本人としての生きざまが問われる今日、自分たちが顧みなければ ならないのは、かつての日本の姿、かつて先人がどのような過酷な運命の中で生き、そして死んでいったかということに真摯に向き合ってゆくことだろうと思い ます。今回、その一端に触れることができたというのは、本当に貴重な体験でした。