ペリリュー島へ行ってきました その②

前回は、ペリリューの戦いをなぞった文章でしたので、すこし写真で補足してゆきます。

ペリリュー島行きの波止場

今回旅行を全面的に支援してくださったのはインパックツアーズさんです。
この波止場は同社が経営するJIVEレストランに隣接しています。
そこにツアー参加者が集まって
ボートに乗って約1時間ほど南に向かうと
ペリリュー島です。
日帰りのツアーコースがあり、20名ほどの参加者がありました。
自分たちも一緒のボートで島まで渡り、
そこから別行動で各地のスポットで読経をさせていただきました。

パラオはサンゴ環礁に浮かぶ大小約200の島から構成されています。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bb/Palau.PNG
そのほとんどが無人島です。
南国のエメラルドに輝く海は、環礁という天然の防波堤によって守られ、
数年前インドネシアで大地震があった時も津波の影響はほとんどなかったそうです。

途中、ゼロ戦が水に沈んでいるところを通りました。
昔は機体がはっきりしていたそうですが、
今はもう残骸しか残っていません。
このゼロ戦は19歳の航空兵が乗っていたのですが、
墜落して、ご本人は岸まで泳いで助かったそうです。

わずかにプロペラの一部が水面から姿を見せていますが、この下にはゼロ戦が横たわっています。波に洗われ、残骸化していました。

北部の戦没者墓地

上陸した港のすぐ近くに戦没者慰霊碑が建っていました。
パラオではスペイン統治時代・ドイツ統治時代の名残でキリスト教が信仰されており、
墓の形状もキリスト教式です。
その墓地の片隅に日本人将兵を悼む塔があります。
塔の周りには、各地の遺族会がそれぞれの慰霊碑を建てて供養していました。
自分たちが法要を開始したころ、
ペリリュー島ツアーの別のグループが到着されたので、
共どもに線香を手向けていただきました。

ペリリュー島の北岸に上陸してすぐ近くにある戦没者慰霊墓地。パラオ人の墓地の中に建っています。幾つもの遺族会が「みたま」と書かれた塔の周囲に慰霊塔を 建立していました。中川州男守備隊長の慰霊碑もここに建立されています。ペリリュー島ツアーに参加したほかのグループの方にご一緒させていただきました。

中川州男大佐自決の地

ペリリュー島内の山中に車を走らせ、
そのさらに奥に歩いてゆきました。
森の中の通路には、ところどころ不発弾が木に立てかけてあります。
それらはすでに信管が抜かれており、
「この通路は安全です」という合図なのだそうです。
山で遺骨収集をするときは地下10センチ程度しか掘り起こすことが許されず、
なかなか難儀したと伺いました。

73日間にわたってゲリラ戦を指揮した中川守備隊長でしたが、ついに力尽き1944年11月24日、自決。その後、残った兵士は玉砕を知らせる「サクラサクラ」を打電し、最後の攻撃が敢行されたのです。

中川大佐と日本軍守備隊については、哀しい物語が伝えられています。しかし、その哀しみのゆえに、パラオと日本とは心からつながりあっているように思います。

碑文には次のようにあります(漢数字はアラビア数字に改めました)。
「この大山周辺は、日米両軍によるペリリュー島攻防戦の最後の激戦地である。
歩兵第二連隊の本部はこの地に位置し連隊長中川州男大佐は、攻撃を反復する米軍に対し、守備隊の持久戦闘を指揮し、独創の白攻切込戦法により著大な戦果を挙げ頑強な抵抗を続けた。しかし昭和19年(1944年)11月下旬にはついに守備隊の戦力は尽き果て戦況急迫するに至った。11月24日中川大佐はこの場所において軍旗を奉焼し「サクラサクラ」の訣別電報を発したのち作戦指導のため派遣された村井権治郎少将とともに従容として自決、行動不能の重傷者約40名は陣地を死守、根本甲子郎大尉以下56名は遊撃戦に転じて全員壮烈な最期を遂げた。
ここにペリリュー島有志の人々とともに、祖国の平和を念じて戦没した英霊の安らかな眠りと連隊終焉の戦跡が永遠に保存されることを祈り鎮魂の碑を建立する。
昭和64年(1989年)2月
歩二会ペリリュー島慰霊推進会」

信管が抜かれ、この一帯の通路は安全という合図として立てかけてある。

戦争博物館にて

かつての日本軍の弾薬庫をそのまま使った博物館です。
内部はひんやりとしており、米軍兵士の兵装をまとった人形が迎えてくれます。
写真撮影可能だということで、色々と撮らせていただきました。
米軍の記録は誇らしいものとして、日本軍の記録はかなり凄惨な形で展示されている印象を受けました。

打ち捨てられた兵器

島内のあちらこちらに打ち捨てられた兵器が風雨にさらされています。
こうした戦争の記憶は、どうやって保存してゆくのだろう。
いまのところ、組織的に保存する計画はないということです。

海軍司令部

西太平洋戦没者慰霊塔

昨年(平成27年)4月9日、天皇皇后両陛下がペリリュー島を訪問され、この西太平洋戦没者慰霊塔で献花・追悼されました。

ペリリュー島からコロールに戻る

帰りのボートは非常に揺れました。
この季節にしては珍しいことだそうですが、
最近時々あることだといってました。
南国の温かい海水が波しぶきとなって
顔といわず法衣といわず
ひっきりなしにかかってきました。
こういう波などものともせず、
いや、雨の如き砲弾をもかいくぐり、
戦場を駆け回った人たちがいたのだとおもうと
波をよける気持ちも起こりませんでした。
ご当地で亡くなった将兵の無言のメッセージを頂いた思いでした。
そして、無事JIVEレストランの波止場に到着。
その後、パシフィックリゾートホテルという
超高級リゾートホテルに案内していただきました。
そのビーチで夕日を眺めながらカクテルをいただきました。
戦争の記憶と観光の国。
どちらが欠けてもパラオではないことを、このとき気づきました。(つづく)

ペリリュー島から帰ってきて、パラオ随一のリゾートホテルに案内していただきました。そのビーチから眺める美しい夕日。尚、このホテルのコテッジは、一泊800ドルだそうです。