まなざし
部屋の整理をしていたら、お坊さんの青年会の会報が出てきた。
忙しさにかまけて、封すら切っていなかった。
編集委員には、良く存じている皆さんのお名前が並ぶ。
文章を書くのにどれだけの御苦労をされたかと思うと、
まずそこで申し訳なさが募る。
封を切る。
表紙には、スコップを手に除雪している年配の女性に近づく雲水さんの姿を写した写真が載る。
二人とも、柔和な笑顔。
ページをめくる。
まっさきにどこを見たか。
それが、問題だ。
この会報は、
全国の宗門寺院の寄付によって成り立っている。
寄付した御寺院のお名前は、逐次報告される。
自分も昨秋寄付したように記憶していた。
それで、そのページを見に行ったのだ。
あった。と安どする。
と同時に、言い知れぬ不快感を感じる。
自己嫌悪である。
その号の特集は、「傾聴」であった。
副タイトルとして、「“寄り添う力”とは」とある。
題にたがわぬ内容の濃い記事が、
紙面をほとばしっている。
編集諸師の意気込みを感じさせる。
にもかかわらず、
その想いに、自分は目もくれず自分自身の関心ごとに注意を惹かれ、そしてそれに従った。
恥じた。
それが、自分自身という人間の正真正銘の姿なのだ、と打ちのめされた。
だが、それを反省などという簡単な言葉で結ぶのには、抵抗がある。
じぶんは、その至らぬ自分自身をこそ傾聴すべきなのではないか。
自己を責めることなく、
ありのままの自分自身を、
至らぬ自分自身を
しっかりと受け止めて行くことが必要なのではないか。
今朝、窓外は美しい5月の緑が冴えわたり、
蛙や小鳥の鳴き声は大地満々たるいのちの唱を響かせている。
そこには自ずとなる仏の世界が広がっている。
そのような自分でありたいと、願った。