信仰について

分は世間の皆さんから、お坊さんなのだから仏教の人なのだと思われている。
だが、本当はどうなのだろう。
仏教の人、というのも見た目のことだけではないだろうか?
お寺に住んでいて、
お経をお唱えしていて、
頭をすっているから、そうなのだ、という感じなのではないか?
そこで本当に自分が信じているのは「仏教」なのだろうか、と問うてみる。
自分自身の仏教は、純粋な信仰なのだろうか、と問うてみる。

自分は、仏教者だが「日本人の」とカッコつきであると答えたい。
免許でいえば、限定である。
限定解除の仏教者ではないわけだ。
そうなるには、自分には頭から信じているものが多すぎる。
たとえば神様。
それも、キリスト教やユダヤ教やイスラームの神様ではない。
日本の、土着の、そこにいる、岩陰の、木の洞の、いつでも見守っている、
そういう、名もなき神様だ。
名もなきゆえに、自分も知らないことも多い。
知らないけれど、受け入れている。
いや、神々こそが自分を受け入れている、というべきか。
だから、神社に行くと自然と頭が下がる。
神仏がいる世界が、自明なのだ。
ここを全部棚卸にして、限定解除することは至難の業ではない。
だが、限定解除する必要があるかどうかは、疑わしい。
それは理念的な事柄であって、どうも地に足がついてないような気がする。

限定ということは、リージョナルであると思う。
リージョナルということは、ナショナルということだ。
だから、他のナショナルと関わるときにその関係がインターナショナルになるのだ。
さて釈迦牟尼世尊も、リージョナルの人だったのだろうか?
たぶん、そうだったろう。
インドとネパールの国境付近にお生まれになったゴータマ・シッダッタは
その土地、その文化の中で育った。
カーストの中にあり、輪廻転生を信じ、須弥山が世界の中心であったに違いない。
それは釈迦族はじめ古代インド世界の人達の世界観だった。
ゴータマ・シッダッタは、2500年前のその世界に生きた。
だから、お悟りをひらかれてからは釈迦族の世尊であり、釈迦牟尼仏陀と呼ばれるのだ。
その尊称が、彼がリージョナルの人であったことを示しているといえる。
だいじなのは、釈迦牟尼世尊も後に続く数多の祖師方も、
みな自分自身の等身大のいのちを生き切られた、ということなのだと思う。
みな普遍というよりも偏狭の中で生きたといっても良い。
その一偏狭の中から普遍を見出し、中道を歩まれたのだ。
偏らない生き方を実践されたのだ。
そういう人の教えが代々代々うけつがれ、
はるか後世の、異なる世界にいる自分も受け伝わっていることが
自分の心を動かす。

土地の神々を信じ、土地の価値観のなかにいながら
自分は仏の指し示した道を目指す。
それが自分の仏教であり、
「日本人の」仏教者の有りようだと思う。

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