終の棲家

終の棲家

今日は近隣のお寺様で大般若会があり行ってまいりました。

法要が終わり、隣の席に座られた方丈様と色々とお話ししました。

その話題の一つに、

終の棲家

ということがありました。

私たちの住む地域は、

過疎に加え少子高齢化の波が直撃しています。

まず、

子供の数がめっきり減りました。

数年前に小学校は閉校し、地区の子供たちは

ひとつとなりの地区の新道小学校に通っています。

歩いて通える距離ではないため、スクールバスを利用しています。

今野田地区全体で、小学生は10数人。

これからさらに数が減って行きます。

最近聞いた衝撃的な事実は、

一昨年、新道小学校区内で生まれた赤ちゃんの数が

12,3人だった

ということです。

これはかなりインパクトのある数字です。

というのも、新道小学校区というのは、

上は鵜川・野田・別俣に始まり、

下は山口・宮之窪・佐水・南下・新道・横山・向陽団地にいたる

広大な学校区

なのです。

その中で、鵜川にはすでに何年も前から小学生はいません。

私が住む野田地区も、

娘らが成人するころには

子どもがいなくなるかもしれません。

反対に、老人だけの世帯は今後も増加してゆきます。

老人が続々転入してくるということではありません。

住んでいる人たちが年齢を重ねてゆくのです。

その中には、当然自分も含まれます。

現在43歳の私は、40年後生きていれば83歳になるのです。

その時地区には、高齢者を支える仕組みはあるのでしょうか。

子どもがいないということは、次世代を担う人間が育たないということです。

次世代を担う人間のいないところで高齢者は増えてゆく。

そして、高齢になるほどに他者の助けが必要になる可能性が増えてゆきます。

これは

悪夢のような、現実

です。

その現実を、少しでも和らげるにはどうしたらよいのか。

できるだけはやく、終の棲家づくりに着手することではないでしょうか。

おときの席で会話した方丈様も、

最後には真剣な表情ですぐにも始めましょう、とおっしゃっておられました。

よく、自分自身のこととして受け止めたいなどといいますが、

本当に

自分自身の問題

なのだ、と改めて思い知らされたのでした。

ところで

修証義

というお経の中に

「舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり

治生産業(ちしょうさんぎょう)もとより布施にあらざることなし」

(橋のない川に渡し船を置くということ、

さらにその川に橋を渡すということは

自分の利益のためでなく、純粋な布施行と言うべきだ。

まして経済や産業を通じて社会を良くし生活を豊かにしてゆくことは、

布施行でないことがあろうか)

という言葉が出てきます。

祖師方は、そのようにして布施行・菩薩行を展開してこられました。

今の時代にいのちを授かった自分も、

祖師方の営みに

勇気

を頂き前に進んでまいります。

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